
こんばんは、サカイヨーキです。
10年以上前から、「徒競走で順位をつけない」「演劇の主役を希望する子全員にやらせる」学校があるそうですね。
「他人と比較する風潮をなくしたい」という理由からだそうですが、本当に効果的なのでしょうか?
今回は、自己肯定感を育てる観点から「順位をつけない教育法」が効果的なのか考えてみたいと思います。
また、どう育てていくのが正解か?についても提示していき、子どもの個性と心の両方を守る方法についても伝えていきますね。
- 徒競走で順位をつけないは無意味
- ポジショニングという考え方
- 鬼滅の刃のがヒットした理由
徒競走で順位をつけると何がいけない?

順位をつけてしまうと、最下位の子がショックを受けるかも。
そう考える学校や親が、徒競走で順位をつけないことを良しとしているようです。
確かに、運動神経にコンプレックスを抱えている子、太っている子は最下位になるのは嫌でしょう。
演劇会で主役を演じられない子も、自分が目立つ存在じゃないことを認識して悲しい気持ちになるかもしれませんね。
最下位や主役を演じられないことは自己肯定感にプラスには働きにくいでしょうし、反対する人の気持ちもわかります。

ですが、順位をつけなければ自己肯定感を守れるのでしょうか?
比べない教育は気休めにしかならない理由

比べないことは確かに子どもが傷つかない点ではプラスでしょうが、実際のところ徒競走や出し物だけではカバー範囲が狭すぎます。
理由を考えてみましょう。
理由①勉強では結局比べるしかなくなる
一部で比べない教育を実施したところで、一部しか効果はありません。
なぜなら結局、多くの学生は高校受験、大学受験を経験するからです。
その前の模試、大学入学共通テストの時点でも競争はすでに始まっていますし、都心では幼稚園のころから受験戦争は始まっています。
「なぜ受験をするのか?」といえば希望校に入るためであり、「なぜ希望校に入りたいのか?」といえば、希望の就職先に入るためです。

であれば、「希望する会社に全員内定」「全員出世」にならなければ結局競争はなくなりませんよね。
理由②体育の時間や部活などで結局受け入れるしかなくなる
とはいえ、徒競走で足の速さだけでも比較しないほうがいいのでは?と思う人もいるかもしれません。
ですが、子どもは自分の足が速いかどうか、運動神経がいいかどうかくらいはわかります。
そもそも、徒競走でみんな同じ順位にするということは、わざと遅く走る子、一所懸命頑張っても遅い子がいるわけです。
なのに子どもたちがお互いに同じ速さだな、なんて感じるほうが無理がありませんか?
結局、なんとなく足が遅い子は自分で気がついて、傷つく可能性はあるのです。

我が子を心配をするなら、本や動画で速く走る方法を勉強して、一緒に特訓するほうがよっぽど思い出や自信なる気がします。
理由③自分の強みを意識しづらくなる
徒競走で一緒にゴールすることで得するのは、どう考えても足が遅い子です。
ですがそれでは、足が速い子は足が速いという個性を見せる場所を失ってしまいます。
クラスの出し物にしても同じです。
結局クラスで過ごしているうち、どの子も自分がクラスの中心にいるかどうかなんて自覚できます。
足が速い子、勉強ができる子、おしゃべりが得意な子は単純にその個性を磨いていけばいいのです。
なので大事なのは、自分が得意なことが不得意な子がいても、傷つけない子に育てられるかどうか。
自分が不得意なことに気づいた子を、励ましてあげられるかどうか。

つまり重要なのは学校ではなく、親の道徳教育や教育方針なのです。
理由④社会を生き抜く戦略性を磨く機会を失う
足が速い子は運動神経が良いでしょうし、勉強ができる子は良い進路に進みやすい、おしゃべりが得意な子は恋愛もしやすい……。
このようなプラスの効果を考えると、それらの要素が自分ないと気づいた子はショックを受けるかもしれません。
ですが、幼いころに気づければ自分の強みを別の場所で見つけようと切り替えることも早くなります。
この点は元2ch管理人のひろゆきさんも「ひろゆきが「徒競走で順位をつけない教育」はバカすぎると考えるワケ」という記事のなかで同様のことを仰っています。
比べられて“できない”とわかったら、違うことを見つけるチャンスでもあります。ガチで向いていない不得意なことをやり続けるくらいなら、得意なものを探して上手になっていくことを教えたほうが健全ですし、子どものためにもなると思うのです。
つまり、下手にごまかしてしまうと、できないことを受け入れられず別の道を見つけにくい。

そのほうが、のちのちまで葛藤を引きずって回り道をする可能性があるわけです。
自己肯定感と個性を両立させる子育ての方針とは?

では、自己肯定感をなるべく下げずに、本人の個性を活かせる子育てとはどんなものでしょうか。
僕は子育ての経験はありませんので、育てられた経験と自己肯定感を育む観点から考えてみました。
方針①家庭で常に子どものプロセスを見守る
自己肯定感とは「自分のいい部分も悪い部分も自分で認められる感覚」のことです。
なので、特に何ができなくても親が子の存在をただただ認めてあげることが大事。
「毎日勉強したら認める」「テストで100点が取れたら認める」という方針だと、「徒競走で1位を取ったら認める」と言っているようなものです。
なので、勉強でも運動でもお手伝いでも、自主的に頑張ったら頑張った事実を認めるのが良いでしょう。
別に大げさに認める必要はありません。
傷ついていたら寄り添ってあげる、頑張ったときは軽く褒めてあげるくらいでも子どもは嬉しいはずです。
不安なときも調子がいいときもいつも親が後ろで見守っている、と思うと子どもは安心して前に進みやすくなります。

安心感をベースに前に進めば、挫折や失敗があっても簡単に負けない強い子に育つのです。
方針②好きなもの、得意なものを積極的に探す
最近は「サンドウィッチマンと芦田愛菜の博士ちゃん」を観ていると、いろんなことに詳しい子どもがたくさんいることに驚かされます。
「お城に詳しい」「戦国時代の戦略に詳しい」「鉱石に詳しい」「古銭に詳しい」など、バリエーションも実に豊富。
ブログを書いている立場からすれば、「こんな専門性があるならブログやYouTubeで発信すれば小遣いを自力で稼げるじゃないか」と唸るほどです。
ですが本人はお金のためでなく、好きでやっているだけなので苦労はありません。
社会人より投資できる時間も残された時間もたくさんあるので、社会人になるころにはかなりの有望株です。
そもそも、お金やアピールにならなくても、好きなことがあるだけで毎日が幸せなはずでししね。
だからこそ、子どもの習い事やお金の投資は勉強、運動に限らず本人の興味をベース考えましょう。

そのほうが子どもの将来につながるはずです。
鬼滅の刃がヒットした理由はみんな主役でみんな脇役だから

2020年にはアニメ「鬼滅の刃(きめつのやいば)」が大ヒットしましたね。
僕は原作のマンガしか読んでませんが、あの作品がヒットしたのはなんとなくうなずけます。
鬼滅の刃が他の作品と大きく違う点は、必ず脇役や敵である鬼の人生にもスポットが当たる点です。
あの作品に登場する鬼たちはもともと人間で、壮絶な経験と悲しみの果てに鬼に変貌した経緯があります。
人間時代のエピソードは本当に悲惨で、ときに人間のほうが鬼に見えてくるほどです。
しかし鬼に変わった彼らは、悪行の限りを尽くしてしまい、最期は炭治郎たち鬼殺隊(きさつたい)に倒されてしまいます。
そして、ここも他の作品と違う点ですが、主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)が鬼を倒すとき、最後は憎しみに染まらず鬼の存在を受け入れます。
そうして、炭治郎の優しさに包まれながら鬼の魂は解放されていくのです。

なのであの作品の魅力は、どんな人物でも人生の主役として描くカタルシス(浄化)にあると思います。
人間でいるか鬼になるかは周りの援助しだい

今回は、比べない教育と自己肯定感の関係について見ていきました。
個人的には順位をつけない教育は意味がないので、順位で左右されない自己肯定感を育てることを大事にしてほしいですね。
ちなみに、ひろゆきさんは子育てについての考え方を本にまとめています。興味がある方はどうぞ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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